50th SPECIAL INTERVIEW
HI-TEC PEOPLE #008 <前編>
HIROCK x 高木 完
1974年にイギリスで誕生し、世界初の軽量アウトドアブーツの開発をはじめ、多くのスポーツで歴史を彩る数々の名作シューズを生み出してきた、アウトドア・ライフスタイルブランド<HI-TEC> のウェブコンテンツ<HI-TEC PEOPLE(ハイテック・ピープル)> は、チャレンジをしながら自分らしい人生やライフスタイルを謳歌するさまざまな人物たちにフォーカスしていくシリーズ。
今回はHI-TECのブランド50周年を記念したスペシャルコンテンツとして、インタビュー1回目に登場いただき、アパレルブランド「ア・ベイシング・エイプ(A BATHING APE)」のグラフィックデザイナーを経て、表現の場を選ばないマルチなアートディレクターとして活躍する「ハイロック」 さんが再登場。
また、ハイロックさんのお知り合いであり、80年代より藤原ヒロシとのユニット<タイニー・パンクス(TINY PUNKS)>や、日本初のクラブミュージックレーベル<メジャーフォース(MAJOR FORCE)>などをはじめ、ヒップホップや海外カルチャーを日本に伝導しながら、東京カルチャーを生み出し、牽引し続けているレジェンドの「高木 完」 さんが登場。
HI-TECが創立した1970年代から、年代ごとのブランドの歴史やシグネチャーモデルを紐解きながら、その時代時代のファッションや音楽、カルチャーとともに、2人の当時の活動やエピソードなどをインタビュー。現在のシーンへ続くカルチャーのルーツが垣間見れる内容を、前編と後編に分けてお届けします。
また今回は50周年を迎えたHI-TECに向けて、高木 完と、メジャーフォースの設立メンバーであり世界トップクラスのサウンドクリエイター「K.U.D.O」 さんの2人に特別に選曲いただいた、HI-TEC限定のスペシャルなプレイリスト<RESPECT COVERS> を配信。
さらにHI-TECとメジャーフォース、ハイロックデザインオフィスの豪華トリプルコラボTシャツ<HI-TEC x MAJOR FORCE x HIROCK DESIGN OFFICE スペシャルコラボレーション Tシャツ> も制作。他では絶対手に入らないコレクタブルなアイテムを、アンケートページより応募いただいた方から抽選で「50名様」にプレゼントします。
ブランド50周年にふさわしいスペシャル企画。皆様のご応募お待ちしております。
※<HI-TEC限定プレイリスト RESPECT COVERS>と<HI-TEC x MAJOR FORCE x HIROCK DESIGN OFFICE スペシャルコラボレーション Tシャツ>は、インタビュー後編ページに掲載しています。
ヒップホップやラップの人たちが履いている靴をいつも気にしてた。
- 今回の<HI-TEC PEOPLE>は、第1回目に登場いただいたハイロックさんに再度登場いただきながら、日本のカルチャーシーンに影響を与え牽引し続けてきたレジェンドの高木 完さんにもお声がけいただき、まさにブランド50周年にふさわしいスペシャルなインタビュー企画となっています。ちなみにもともと2人がお会いしたきっかけはいつ頃でしょうか?
高木:ハイロックがア・ベイシング・エイプ(A BATHING APE) のレディースブランドのベイピー(BAPY)のグラフィックデザインやってた頃だよね。当時は展示会によく行ってた。
ハイロック:完さんの奥さんもベイピーが好きでよく来てくれてました。
高木:2000年代の頭ぐらいだよね。ウェアも良かったし可愛かったよね。
ハイロック:あと当時はよくトートバックを作りました。それこそ出せば飛ぶように売れた時代でしたね。
高木:もう20年以上前の話だよね。つい最近のことみたいなんだけど(笑)
ハイロック:ちなみにその頃って、完さんが活動されていたエイプの音楽レーベル、エイプ・サウンズ((B)APE SOUNDS)は始まってました?
高木:エイプ・サウンズは1999年の暮れに始めようってなってたから、その頃はもう立ち上がってるね。
ハイロック:スタジオももうできてましたかね?スケシンさん(スケートシング)とマンキーさんのデザイン部屋があってその隣にスタジオがありましたが、あそこは特殊なフロアでしたね。もう聖域みたいな踏み入れ難い場所で、かなり行きづらかった(笑)
高木:あの頃は面白かったよね。行ったり来たり、あーだこーだ言いながら(笑)エイプと関わってたのは15〜16年ぐらいのあいだだったけど、まあまあ長くみんなと一緒にいたし、今となってはハイロックもみんなも親戚みたいなもんだよね。
- ちなみに完さんは1961年生まれということで、1974年創立のHI-TECより年上になりますね。
ハイロック:僕は1974年生まれだからちょうどHI-TECと同じ歳。名前もほぼ一緒だし(笑)
高木:HI-TECってけっこう古いブランドだったんだね。そういえばHI-TECっていうブランド名ってずっと一緒なの?
- そうですね。創立してからずっとブランド名はHI-TECになります。
高木:それって相当早いよね。その頃ってたぶん「ハイテック」とか「ハイテク」っていう言葉ってまだなかったんじゃないかな?僕流に文字ると「履いてく?」みたいな(笑)
- 当時にそのキャッチコピーがあったら、HI-TECはもっと流行ってたかもしれないですね(笑)
ハイロック:ちなみに完さんはHI-TECは前からご存知だったんですか?
高木:知ってた知ってた。なんで知ってたかっていうと、90年代頃にヒップホップグループのパブリック・エネミーのメンバーが履いてたんだよね。
ハイロック:そうなんですか!それはすごい情報。
高木:自分ミーハーなんで、当時はヒップホップやラップの人たちが履いている靴をいつも気にしてた(笑)みんな意外とメジャーなブランドのシューズは履かないんだよね。もちろんメジャーなブランドも履くけど、それ履く?みたいなシューズも履いててさ。
ハイロック:それ、すごいわかります。
高木:当時はアディダスとかナイキが流行ってる一方で、違うシューズを履く人が結構いたんだよ。たぶんそこにあるHI-TECのアーカイブのブーツを当時にパブリック・エネミーのチャックDか、パブリック・エネミーと一緒にいたS1W(Security of the 1st World)のメンバーが履いてたと思うんだよね。
ハイロック:このコンバットブーツってMAGNUM(マグナム)だよね?
- そうです。MAGNUMはHI-TEC のユニフォームコレクションとして、1982年からスタートしたんですけど、90年代あたりにこのコンバットブーツが日本でかなり流行りました。
高木:多分このモデルだと思う。パブリック・エネミーっていかにもこういうの履きそうじゃん?僕はドクターマーチンとかも好きだったからこのブーツがすごい気になって。当時パブリック・エネミーとも仲良かったからそれ何?って聞いてHI-TECだって教わって。
ハイロック:それって本人に聞いたんですか?
高木:本人しかないでしょ(笑)彼らが日本来たときは普通に連絡取って会ったりしてたからね。それで誰かに教えてもらってすぐ買いに行ったんだけど、どこに買いに行ったかは覚えてないな。
- まさかそんなエピソードを聞けるとは思いませんでした。
高木:もともとパンク好きだし、ドクターマーチンとか安全靴とかも好きだったから。このブーツってそういう雰囲気もあるけど、スニーカーっぽい要素もあるから珍しいなと思って、すぐ買いに行ったんだよね。もしかしたらまだ持ってるかも?
パブリック・エネミーが履いてるっていって、このMAGNUMを紹介したと思う。
ハイロック:ちなみに僕もHI-TECを知ったのはこのMAGNUMのブーツからで、若い頃によく履いてたんですよ。このブーツにリーバイスの赤耳とか合わせて履いてました。
- 以前のインタビューでもお話しいただいてましたね。
ハイロック:その当時に群馬の前橋にエイプを販売していたショップがあったんですけど、そのショップの前身がアメカジ屋で、そこでMAGNUMのブーツを取り扱ってたんです。
高木:それっていつ頃?
ハイロック:同じく90年代初めか半ばあたりですかね。完さんはどこで買ったんですかね?
高木:どこで買ったんだろう?でも当時は僕しか履いてなかったな。
- これは推測ですけど、もしかしたら完さんから90年代のコンバットブーツのブームが始まったかもってふと思いました。その頃はMAGNUM以外にも色々なブランドのブーツも流行ってましたが。
高木:そういえば、ファッション誌のファインでこれ紹介した覚えがあるかも。雑誌の宝島でヒロシ(藤原ヒロシ)と2人でやってた<ラストオージー(LAST ORGY)>の連載が終わったあと、ファインでHARDCORE FLASHっていう連載をやってて。ヒップホップのグッズとか自分に送られてくるプロモーションテープとか紹介してたんだけど、そこでパブリック・エネミーが履いてるっていってこのMAGNUMを紹介したと思うんだよね。
ハイロック:本当にそこからブーム始まったかもしれないですね。
- 90年代にMAGNUMのブーツが流行ったきっかけがよく分からなかったんですが、「完さんが源流説」にかなり信憑性出てきましたね。ちなみにMAGNUMがスタートした時のエピソードとしては、当時アメリカのFBIから軽量で快適な運動用のユニフォームブーツが欲しいという依頼を受けたのが誕生のきっかけになります。
高木:それは知らなかった。でもいかにもパブリック・エネミーのメンバー達が好きそうなエピソードだね。
ハイロック:MAGNUMは他の国にも採用されてたよね?イギリス軍のトレーニングシューズとか。
- そうですね。以前ハイロックさんにインタビューした時に取り上げたのが、現在国内で展開している「MAGNUM U.S.T」というモデルで、イギリス軍で採用されているシューズになります。
ハイロック:あれもめちゃくちゃクッション性があって履きやすいんだよね。ちなみにこのMAGNUMのブーツは今も展開されてるのかな?
- 残念ながら今では展開されてません。
高木:ぜひ復活してほしいよね。いつかこのモデルで僕らの<メジャー・フォース(MAJOR FORCE)>とコラボレーションできたら嬉しいね。
ハイロック:今だったらもっと軽量にできそうだし、防水機能とかつけてさらにアップデートできそうだよね。
自分的にはかなりMAGNUMのショートブーツっぽい気分も味わえるかも。
- 今日2人に履いていただいているのが、1978年に世界初の軽量のアウトドアブーツとして開発された「SIERRA LITE(シエラ・ライト)」というモデルで、こちらに当時のオリジナルがありますが、履いていただいているものはブランド50周年を記念して今シーズンに復刻リリースしたシューズになります。
SIERRAの開発ストーリーとしては、70年代にHI-TECがアメリカに進出したときのビジネスパートナーから、アメリカはハイキングが盛んなのでアウトドアシューズを作ってほしいっていうリクエストがあって開発されました。それまでのアウトドアシューズは重いのが当たり前だったので、世界で初めて“軽量”という概念を持ち込んだこのSIERRAは大ヒットして、その後のブランドのビジネスにも大きく貢献したモデルとなりました。ちなみにこちらは当時のHI-TECのカタログのデータになります。
高木:これおもしろいね!当時の空気感が最高だね。
ハイロック:この辺の時代の空気感はたまらないものがありますよね。
高木:ね。でも雑誌でいうと、ポパイっていうよりホットドッグプレスっぽいよね。このモデルのわざとらしい感じがホットドックっぽい(笑)
ハイロック:僕の履いているブラウンカラーは当時のオリジナルのカラーリングを意識してるね。でも全体のシルエットは少し細くなってるかな? オリジナルのほうはつま先部分が少し大きくてゴツいよね。
- そうですね。オリジナルのシルエットを再現しつつも、アウトソールは加水分解しにくいソールに変えていて、全体的にオリジナルより少しスタイリッシュな雰囲気に仕上がっているかと思います。
高木:僕が履いているブラック一色のカラーリングもかっこいいよね。
- このSIERRAは、今までリリースしてきたアイコンモデルにスポットを当て、セルフリプロダクトしていく「ORIGINAL SINCE(オリジナル・シンス)」というコレクションで、日常や街でも履けるようにカラーリングや機能などをアップデートし、都会的な雰囲気になるように意識しています。
高木:このオールブラックモデルって、自分的にはかなりMAGNUMのショートブーツっぽい気分も味わえるかも。こうやってスポッと履けるのもいい感じだし。
- MAGNUMの意識はしてなかったんですが、そう言われるとそのようにも見えてきますね。ちなみにSIERRAの大ヒットでHI-TECの知名度が上がったことにより、 FBIからのMAGNUMの開発依頼にもつながっていきます。
ハイロック:このモデルはシューレースの通し方で足入れのしやすさも変わりますよね。完さんは途中まで紐を通してるけど、僕は上までキッチリ通すみたいな。
-それぞれ履くスタイルが違っていて、それも面白いですね。
ハイロック:でも、よくよく思い出してみたら若い時にこのSIERRAも履いてたかも?
- ちょうど90年代に日本でもSIERRAの流通が増えたようなので、もしかしたらそのタイミングで手に入れていたのかもですね。それと今日合わせていただているスタイリングのポイントはありますか?
高木:このシューズに合わせてもおかしくない格好を意識しました(笑)パンツはラルフローレン。
ハイロック:このペイントは最初から加工されてるんですか?完さんが履くとラルフっぽくないですよね。
高木:Tシャツはマジックナンバーっていうサーファーの中村 竜くんがやっているブランド。当初は前にエイプにいた若い子が関わってたんだよね。
- ハイロックさんはアウトドアな雰囲気でまとめられてますね。
ハイロック:このブラウンカラーのシューズがやっぱりアウトドアの雰囲気なので、今日はちょっとアウトドアっぽいメッシュのベストと、スケシンさんのブランドのC.Eのパンツを合わせてみました。完さんはブラックが似合ってるけど、僕はこっちのブラウンの方が好みだったからちょうど良かったよね。
編み上げのブーツは欲しかったから、最初は登山靴とか安全靴とかを買って履いてた。
- 今回のインタビューでは、ブランド創立の1970年代から、その年代ごとのHI-TECの歴史やシグネチャーモデルを紐解きながら、その時代時代のファッションや音楽、カルチャーのお話しとともに、2人の当時の活動などお聞かせいただけたらと思っています。
HI-TECは1974年にブランドが誕生しましたが、70年代の日本のアウトドア界隈のトピックスというと、Made in USA Catalogやポパイなどのファッション雑誌によって、「ヘビーデューティー」という言葉が生まれ、アウトドアファッションがブームとなりました。ブランドでいうとLL Beenやシエラデザインズ、パタゴニアなど、特にアメリカのアウトドアブランドが流行った時代でしたね。
高木:ヘビーデューティー流行ってたよね。当時ポパイはよく読んでた。ここにも77年のポパイがまだ残ってるよ。これ舘ひろしさんと宇崎 竜童さんでしょ。これは岩城 滉一さん。ビームスもまだ出来立ての頃だね。ユナイテッドアローズの重松さんもビームスの店長で載ってるし。
ハイロック:おー本当だ!ちなみにその頃のアウトドアやヘビーデューティーのブームはどう思ってましたか?
高木:ポパイはパンクとかロックも載ってたからそっちの話題をよく読んでたけど、アウトドアとかはまあ自分には関係ないなって思ってたかな(笑)当時はみんながアウトドアの方に向いてたし、僕は天邪鬼でひねくれてるんで、人がそんなに行ってないほうに行く、みたいな(笑)
- 完さんは神奈川の逗子が地元ということですが、当時は何かスポーツとかやられてたんですか?
高木:いや全然(笑)ちょっとはやってたけど、基本文化系だし高校も部活があってないような感じだった。中学の頃から友達とバンドをやって、高校の時はパンクバンドで普通に新宿LOFTとかで演奏してたしね。
ハイロック:早いですね。その時は何かコピーとかですかね?
高木:いや、オリジナルの曲やってた。
- 1979年にはすでにFLESHのボーカリストとしてデビューされてますね。ちなみにもともと完さんがパンクにハマっていったのは、ロックDJの大貫 憲章さんのラジオとかからですか?
高木:大貫さんの番組はよく聴いていたけど、プラスチックスや東京ロッカーズのライブを観に行った時が一番ショックだったかな。あとは近田 春夫さんだよね。その3つが僕にとってデカかった。
- また、当時の世界的なパンクムーブメントの象徴といえば、やっぱりセックス・ピストルズですね。
高木:ピストルズは好きだったけど、ピストルズと同じことやっちゃいけないっていうかさ。ボーカルのジョニー・ロットンがいつもインタビューで「俺と同じことはやるな」って言ってたから、当時からコピー曲は駄目だと思ってたわけ。ジョニー・ロットンは見た目もカッコいいし、言ってることもかっこいいし、とにかく大好きだった。
- 当時のパンクファッションのブランドといえば、セディショナリーズが有名ですが、その頃の完さんも着られてましたか?
高木:セディショナリーズは着てたけど、全身は着ないでちょっと変えるみたいな感じだったね。最初は原宿のショップの赤富士とかで買ってたけど、当時は値段が高かったからあんまり買えなくて。一番買ったのは79年に、のちにアーティストになるアレクサンドル今井がいて、彼が東京ロッカーズのイベントの時にLOFTの店の前で自分のセディショナリーズの服とかいっぱい売ってて、それを結構買ったんだよね。でもその時もっと買っておけばよかったって今でも思ってる(笑)
ハイロック:ちなみにその時はどんなシューズを履かれてたんですか?
高木:それ重要だよね。ドクターマーチンは高かったのかなんかで買えなかったんだよね。だからはじめは登山靴とか履いてた(笑)
ハイロック:登山靴とはまた意外ですね(笑)
高木:やっぱり編み上げのブーツは欲しかったから、最初は登山靴とか安全靴とかを買って履いてたんだよね。でも登山靴は重かったね(笑)
- 昔の登山靴はかなり重いですよね。
高木:僕がそれ履いてたら、イギリスのお金のないパンクはみんな登山靴とか履いてるよってアレキに言われたけどしゃくだった。Tシャツだけセディショナリーズ着て、あとはジーンズと登山靴みたいな感じだったかな。でもそのあとにすぐにラバーソール買えた時は嬉しかったな。
ハイロック:当時は日本でパンクを聴いてる人は少なかったですか?
高木:それどころか、パンクを聴いてると馬鹿にされてたよね(笑)パンクっていう名前もちょっと間抜けな感じだし、そんなもん聴くの馬鹿じゃないのって感じで。もちろん逗子にはパンクなんか聴いてる人はいなくて、東京に行けばパンク聴いてる人いっぱいるのかなと思ったら全然いなくてそんなもんかと思った。
ハイロック:その頃は完さんの周囲の少数でパンクが盛り上がってたみたいな感じですかね?
高木:全然盛り上がってなかったよ!でも自分にとってはその時はパンクが一番カッコよかったからね。音的にもビジュアル的にも。今までを一新してる感じだった。あと、ロックンロール・リバイバルにしろ、グラム・ロックにしろ、自分たちの前の世代の人たちがやってきたジャンルだったけど、パンクはちょうど同世代っぽい感じがあったから、ちょうど今だ!って思って。それまでは後追いばっかりだったから、これはリアルタイミングでぴったりだと思ったんだよね。
ヒップホップはまさにストリートフォーマルって感じで、そういう黒人たちのオシャレセンスってすごいなって思った。
- 続いて80年代の話題に移りますが、日本では80年代半ばあたりにバブル景気が到来し、アウトドア・レジャーシーンでいうと、映画の「私をスキーに連れてって」のヒットで、スキーブームなどもありました。スノーボードもこの辺りから徐々に日本に浸透していきましたね。
ハイロック:スキーブームあったね。リフト待ちとかめちゃくちゃ行列だった。
- 80年代のHI-TECはさらに色々なスポーツ分野のシューズを開発していて、1981年に発売されたこちらの「SILVER SHADOW(シルバーシャドウ)」は、当時のロンドンマラソンに参加したランナーの2割はこのシューズを履いていたという、SIERRAと並んでブランドを代表するエポックメイキングなモデルの1つになります。
ハイロック:このアーカイブのSILVER SHADOWのHI-TECの旧ロゴもいいよね。たしかこのモデルもイギリス軍に採用されてたやつだよね?
- そうですね。イギリス軍や消防隊のトレーニングシューズとしても採用されていて。今国内では「SILVER SHADOW Ⅱ」というモデルを展開しています。ちなみに今シーズンに、イギリス軍のメジャーコントラクターとしてロンドンに拠点を構えるJ&S FRANKLIN EQUIPMENTというブランドともコラボレーションしています。
高木:これもいいよね。クラシカルだけどモードっぽいファションにも合いそうだし。
- また音楽では、80年代初めあたりにはパンクのムーブメントが終わり、ニューウェーブと移っていきます。完さんのプロフィールですと、81年にバンドの東京ブラボーに参加され、84年よりDJとして活動していきますが、なんといっても86年の藤原ヒロシさんとタイニー・パンクスの結成が1つの大きなハイライトですね。まさにそこから日本にヒップホップが浸透し始めていくという黎明期でしたが、そもそもヒップホップに傾倒していったきっかけはなんだったんでしょうか?
高木:知ったのは、ピテカントロプスっていう原宿にあったクラブが始まる直前に、プラスチックスのトシちゃん(中西 俊夫)に「もうロックバンドやってる場合じゃないよ」って言われて、ダンスミュージックだよねって話になって。それから実際、世の中的にもそうなってたし、ローリング・ストーンズもダンスミックスとか出したりしたてたから、徐々にバンドの時代じゃなくなってるのか、となっていった。楽器じゃなくてDJがレコードで音出すだけのライブっていうスタイルが新しくてかっこよかった。
- ヒップホップグループのRUN DMCの登場をきっかけに、80年代半ば前後あたりから世界的にヒップホップのムーブメントが始まりましたが、同時にRUN DMCがアディダスをフィーチャーしたことで、スニーカーが大々的にフォーカスされていきました。ちなみにヒップホップ界隈だとスニーカーをキレイに履くのも1つのスタイルでしたね。
高木:そうそう、靴踏むなってね(笑)それとクラッシュ・グルーブっていうヒップホップレーベルのデフ・ジャムの映画見ると、ファットボーイズがシューレースをアイロン掛けしてるところから始まるの(笑)
ハイロック:めちゃくちゃフォーマルですね(笑)
- スニーカーやシューレースの色も自分の格好と色を合わせなきゃいけないみたいな感じでしたよね?
高木:スニーカーは白だけどシューレースと靴下とTシャツの色はグリーンとかオレンジとかね。ヒップホップはまさにストリートフォーマルって感じで、そういう黒人たちのオシャレセンスってすごいなって思った。
- 汚れもブラシでその都度キレイにしてたみたいな(笑)でも、かたやパンクはボロボロのシューズがかっこいいっていうスタイルですね。
高木:パンクはボロボロ。でもジョニー・ロットンは常にオシャレで、彼のハズす感じが好きだったね。
ハイロック:ちなみに完さんもアディダス履いてたんですか?当時日本にアディダスって売ってました?
高木:探して買ってたよ。その頃の日本のアディダスってアメリカで売ってるものとは違かったから、あんまり欲しいものがないわけ。RUN DMCみたいにスーパースターを紐なしで履きたかったけど、日本では売れ残りだったのか、小さいサイズか大きいサイズしかなかった。それでニューヨークに行って買うんだけど、やっぱり当時はアメリカに行かないと同じもの買えなかったんだよね。
ハイロック:アディダスのジャージも着てたんですか?
高木:着てた(笑)それとRUN DMCのために開発されたアディダスのウルトラスターっていうモデルもあとあとに出て、ゴムで止められて紐ナシで履けるからよく気に入って履いてたよね。
- そういえば、86年にRUN DMCが初来日した時に、完さんが日本のアディダスのジャージをRUN DMCに着させたっていうエピソードを聞いたことがあります。
高木:そうそう、僕とヒロシが当時のアディダスの日本の代理店に呼び出されて、「RUN DMCが来日した時にこういうジャージ着てくれますかね?」って相談されて。袖とかリブが付いてるタイプだったから、まずヒロシが「これは着ないでしょ」って言ってて(笑)僕も着るわけないなって思ってたんだけど、彼らステージではしっかりそのジャージ着てたね(笑)
ハイロック:日本のアディダスを着てたんですか(笑)
高木:そう、RUN DMCはライブ以外でも「笑っていいとも!」に出演した時もちゃんと日本のアディダス着てたし、スチール撮影でも着てたよね。
- RUN DMCとタモリさんがラップやってる動画が今でも残ってますね(笑)たしかに着ていたのはブルーのジャージだった気がします。
高木:でもプライベートは当時アメリカでしか買えないサテンの生地の3本線のジャージ着てて。
ハイロック:やっぱりそっちの方がかっこよかったですか?
高木:そっちの方が全然カッコよかった。でも今見るとリブの入ったジャージもいいんだよね。リブのやつはそのあとイギリスのマンチェスターのバンドたちが着てたけどね。
ジャージにさらにボンテージパンツを合わせたのは僕が初だよね。最初にその格好してヒロシに会ったらビックリしてた。
- また80年代のRUN DMCやアディダスのヒットと同じ時期には、ナイキでもエアジョーダンが大ヒットし、まさに今に続くスニーカーカルチャーのムーブメントが一気に盛り上がっていきました。
高木:最初はアディダスのほうが全然人気あったよね。ナイキはジョーダン出るまではそんなに有名じゃなかった。
- ジョーダン自身も最初の契約希望はアディダスだったって話もありますね。
ハイロック:「AIR」っていうナイキの映画でそのエピソードあったね。
高木:そういえば、当時ジョーダンが流行った時に僕は買わなかったんだけど、なんでその時買わなかったのかなって思ったら、バスケットボール詳しくなかったからだってふと思い出した(笑)
ハイロック:(笑)
高木:買えたけどあえて買わなかったんだよ。だってバスケットボール詳しくもないやつがジョーダンの買うのって何かおかしいというか、あの頃僕の中でなんかそういうこだわりみたいなものがあった気がする。当時は自分がパンクやニューウェーブからヒップホップにいってるっていうのもあったから、余計そういうのがあったのかもしれないね。まあ90年代ぐらいからは普通にナイキも履いてるけど。
それと、当時ビースティボーイズのMCAがアディダスのスタンスミスを履いてたんだけど、テニスは知らないしやってないから、スタンスミスって誰?なに?みたいな。でもスタンスミスだけはちょっと気になってたし、ビースティもテニスやってなさそうだよなって考えて結局は買うんだけど(笑)
- (笑)やっぱり音楽でもスポーツでも興味があって体験しすることで、そのままファッションに繋がり、スタイルを生み出していきますよね。同じ格好してもそのジャンルを体験するのとしないのでは、滲み出る雰囲気とかカッコ良さが違うというか。
高木:そうだね。そこは自分の中で感覚というか暗黙のルールが見たいのがあったのかも。
ハイロック:そういえば、アディダスのジャージにヴィヴィアン・ウエストウッドのハットを合わせるっていうスタイリングはどっからきてたんたんですか?
高木:もともとはマルコム・マクラーレンのBUFFALO GALSって曲のプロモーションビデオで、そういうジャージ着てバッファローハットかぶってっていうファッションのノリがあったから、そこからのインスパイアだね。マルコム自身もヒップホップにハマってたしね。
- マルコム・マクラーレンもヴィヴィアン・ウエストウッドも、セックス・ピストルズの仕掛け人ということで、そこもパンクと通じてますね。
高木:ただ、アディダスのジャージにさらにボンテージパンツを合わせたのは僕が初だよね。最初にその格好してヒロシに会ったらビックリしてた。一言「割と合うね」って(笑)
ハイロック:たしかにジャージとボンテージパンツは意外と合いますね。(笑)
高木:僕がジャージを上下で着ても全然似合わない。ヒロシはエキゾチックな顔してるから格好良く見えるんだけど。僕は醤油顔だし、色も白いし、なんかピンとこないなって思って、それで下はボンテージパンツにしてみたの。そしたら意外と合うじゃんみたいな。
ハイロック:そういえば、アディダスのジャージにハットのスタイリングって、ファレル・ウィリアムスもグラミー賞受賞の時にやってましたね。
高木:それはやっぱり僕発信のNIGO経由のファッションだよね。前にNIGOとファレルと一緒に香港に行った時に、NIGOから完さんにファレルが是非聞きたいことがあるっていうんで聞かれたのが「なんでアディダスとボンテージパンツをあわせようとしたんですか?」ってファレルに真顔で聞かれた。で、セットアップだと似合わないからって。
ハイロック:マルコム・マクラーレン〜完さん〜NIGOさん〜ファレル・ウィリアムスっていうスタイルの継承の流れがまたすごいですね。
ファッションとか音楽とか、ホラーとか映画とかゲームとかおもちゃとか、その時その時で載っけて紹介してただけ。
- また、完さんと藤原ヒロシさんで86年に結成されたタイニー・パンクスでは、いとうせいこうさんとのカップリングで「建設的」という、日本のヒップホップの原点の1つともいえる音源も出されていますが、宝島の連載で様々な最新カルチャーを2人でピックアップし紹介していたラストオージーも、今のファッションやカルチャーに続く原点の1つだったかと思います。
ここにある2022年に発刊されたTINY PUNKS TOKYO CHRONICLEという著書に当時の連載ページが載っていますが、拝見するとファッションやスニーカーだけでなく、音楽やスケートボードなど様々なカルチャーを紹介されていて、今見てもかなり面白い内容です。
高木:その本は僕とヒロシとライターのデッツ松田の3人で書こうってなった本だね。途中でちょっとストップしちゃってたけど(笑) 80年代はよりスポーツや音楽やファッションがミックスしてきていて、そういうサブカルチャーの新しい話題を僕とヒロシで連載のなかでどんどん紹介していった感じだよね。例えばスケボーもそれまでは別のジャンルって思ってたけど、80年代にはTHRASHERをきっかけに一緒だったのかと知ったし、ステューシーもそういう流れで出てきてたよね。
- ちなみにそもそもラストオージーの連載はどういう流れで始まったんですか?
高木:はじめは僕がヒロシを誘ったんだよ。ちなみにこのラストオージーの連載って筆談で書いてるのね。
ハイロック:え、筆談だったんですか?
高木:そう。でも、それを最初に始めたのは僕と大貫さんで。当時大貫さんは原稿の依頼がいっぱいあったんだけど、書くのめんどくさくなっちゃって(笑)で、僕もその頃ライターもやってて、大貫さんがマルコム・マクラーレンのバウ・ワウ・ワウのアルバムのライナーの締め切りがすぐだから一緒にやってくれって言われて、友達の家で酔っ払いながら2人で書いたの。それが筆談システムの一番最初。で、そのままレコード会社に渡して入稿って感じで。
ハイロック:いいシステム考えましたね(笑)
高木:大貫さんが考えたんだ。それから当時ロンドンブックっていうロンドンのトラベルガイドブックを作った中村 直也とよく仕事をしてて、直也とも筆談で始めて、その直也が日本にいないときにヒロシにちょっと一緒にやってよって言って、他の雑誌で始めて、その流れで同じ筆談システムでラストオージーの連載を始めたんだよね。
ハイロック:そのまま入稿できるからすごい省エネ。ずっと筆談でやってたんですか?
高木:ずっと筆談でやってた。当時のオリジナル原稿あったらすごいよね(笑)僕とヒロシの字が違うわけだし。あと、2人とも雑誌の片隅の記事みたいなのが好きだったんだよね。当時ポパイの後ろのほうにポパイフォーラムっていうページがあって、イラストと文章書いてたのが松尾 多一郎さんって人なんだけど、それがめっちゃ面白かったの。だからラストオージーは松尾さんからの影響が大きいかもね。スケシンも松尾さんのイラストから影響されてるんじゃないかな。ヒロシはヒロシで何かイメージがあったかもしれないないけどね。
ハイロック:松尾 多一郎さんはちょっと知りませんでした。
高木:あと、僕が文章で影響を受けたのは内田 裕也さん。裕也さんはローリング・ストーンズのライナーとか平凡パンチとか書いてたんだけど、英語とカタカナと漢字を混ぜる文体がカッコよくて。そんな裕也さんの言語感覚で週刊プレイボーイの連載に「要チェック!」って言葉を取り入れた。
ハイロック:完さんは「要チェック!」の生みの親でしたね。内田 裕也さんの影響から「要チェック!」が出来上がったんですか?
高木:そうそう。まあ「要チェック!」はヒップホップとかの挨拶言葉の「YO!」ってのを、ダジャレ的に日本語に置き換えて「要!」にしただけなんだけどね(笑)
ハイロック:すごい発明ですよね。
高木:そんな大したことじゃないんだけどね(笑)でも、当時の深夜の情報番組でアナウンサーが「これは要チェックですよ」って言ってたのを見たときは一番驚いたかな。これ絶対俺のやつだなって(笑)
- (笑)でも、インターネットがない時代のファッションやカルチャーの情報源っていうと、やっぱり雑誌しかなかったので、ラストオージーで紹介されていた国内外の最新情報は当時かなり新鮮だったと思います。
ハイロック:ちなみにこの本に掲載している当時のラストオージーのページの資料って完さんが持ってたんですか?
高木:それはNIGOが持ってたやつだね。
ハイロック:全部NIGOさんが持ってたんですか?
高木:そう、NIGOがキレイにスクラップしてた。
ハイロック:それはすごい(笑)そうするとこのラストオージーがなかったら、NIGOさんやエイプをはじめ、その後の裏原宿ブームもどうなってたかわからないですし、そうなると今のファッションやカルチャーももしかしたら違うものになってたかもしれないですね。
高木:そんなにすごいもんでもないと思うけど(笑)たまたま、ファッションとか音楽とか、ホラーとか映画とかゲームとかおもちゃとか、その時その時で載っけて紹介してただけなんだけどね。まあラストオージーの情報はかなり不親切だったけど(笑)でもそれもわざとやってて、そこで気になったり食いつく人は、余計何なんだろうってなっていくじゃん。
ハイロック:今はインターネットやSNSとかってリンクつけてどこで売っててどこで買えますみたいな、ある意味親切な世の中ですよね。
高木:そうだね。でも未だに本気で調べようとしてもネットなどでうまく検索しないと出てこない。けど本気で調べていくとまあまあ出てくる。外国のサイトを見つけたり、こんなのあるんだってなったり、そういう体験が面白いよね。ラストオージーの情報って不親切にも程があるけど、今でもそういう不親切さを残してあとは調べて、ぐらいの気持ちは持ってるよ。
僕は先輩の話を聞きたがるタイプだったけど、ヒロシが若者たちを面白がってた。
- それと完さんと藤原ヒロシさんの後に、NIGOさんとアンダーカバーのジョニオさん(高橋 盾)が、ラストオージー2を連載していましたよね。その時って何か引き継ぎ的なものはあったんですか?
ハイロック:襲名式みたいな(笑)
高木:あったあった。ラストオージーの名前使わせてください号みたいなのがあった。たぶんその時の宝島もここにあると思うよ。
ハイロック:ラストオージー2も筆談だったんですかね?そもそも筆談のシステムって伝えてたんですか?
高木:それは知らないなあ。でもそこも踏襲してやってて欲しいよね。筆談はヒロシが教えてると思うから知ってると思うけど(笑)
ハイロック:今度NIGOさんに聞いてみよう(笑)
- そういえばラストオージーは映像もありましたが、あれはどういう企画だったんですか?
高木:あれはFM-TVのフジテレビの深夜番組だね。あれは厳密にいうと、ラストオージーじゃなくてロストオージーなんだよ。あとラストオージーって名前は、女囚モノのポルノ映画のタイトルからきていて(笑)
ハイロック:それやばいですね(笑)それって公になってるんですか?
高木:時々言ってるよ。言うとみんなショック受けるけど(笑)ヒロシがあの手のB級映画とかホラー映画とか好きで結構ビデオ集めてたからさ。で、その中にあったタイトルで俺がこれ面白いなと思ったから、これがいいかもって言って付けたの。
- ちなみにNIGOさんとの出会いどんな感じだったんでしょうか?
高木:会ったのは彼が原宿のア・ストア・ロボットっていうショップにしょっちゅう来るようになったてからだよね。ジョニオもそう。その2人はすごく覚えてる。ネイバーフッドの滝沢シンちゃん(滝沢 伸介)はヒロシと同じマンションに住んでたから知り合ったし、スケシンはもともとバイオレント・グラインドっていう下北沢のスケートショップでバイトしてたからって感じかな。
ハイロック:完さんは年下の方だと誰と一番仲が良かったですか?
高木:んー実はそんなに合う人はいなかったかも(笑)その頃は中西トシちゃんとかK.U.D.Oくん(工藤 昌之)としょっちゅう一緒にいたからね。K.U.D.Oくんとは今でも一緒にメジャーフォースやってるし。僕はそんなに人に教えるっていうものもないし、どっちかというとトシちゃんの話聞いてたいなって感じだった。
ハイロック:完さんと中西さんは歳はどれくらい離れてたんですっけ?
高木:トシちゃんが5歳上だね。ロボットの店長だった髙橋 一郎は同じぐらいの歳だったから仲が良かったかな。
ハイロック:髙橋 一郎さんはNIGOさんの名付け親ですね。
- 藤原ヒロシさんに似てるから「藤原ヒロシ2号=NIGO」になったというエピソードでしたよね。ちなみにジョニオさんはジョニー・ロットンに似てるからっていう。
ハイロック:NIGOさん然りジョニオさん然り、当時の原宿のネーミングセンスってすごい秀逸だよね。
高木:たけし軍団っぽいよね(笑)でもやっぱり後輩と仲良かったのはヒロシだよね。僕は先輩の話を聞きたがるタイプだから、そこまで付き合いがある方じゃなかったと思うんだけど、ヒロシが若者たちを面白がってたし可愛がってたよね。今でもヒロシはうちの高校生の子供の話を聞きたがるから。ご飯食べに行こうって時も「子供のスケジュールも大丈夫?」って、うちの子供の方の予定を優先してる(笑)
ハイロック:やっぱりいつでも若い世代に興味があるんですかね。
- ちなみに藤原ヒロシさんは、昨年あたりからFRAGMENT UNIVERSITYというプロジェクトを主宰され、ファッションやブランドのマーケティングの講義をされてますよね。
高木:ヒロシは昔からずっと若い世代に興味あるよね。学校の先生もやってるってことは、これからは若い人たちに何か伝えたいこともあるんじゃないかな?
※<HI-TEC限定プレイリスト RESPECT COVERS>と<HI-TEC x MAJOR FORCE x HIROCK DESIGN OFFICE スペシャルコラボレーション Tシャツ>は、インタビュー後編ページに掲載しています。
ハイロック
アートディレクター
NIGO氏に師事し、アパレルブランド「ア・ベイシング・エイプ(A BATHING APE)」のグラフィックデザイナーを経て独立。20年に渡り東京・裏原宿の一大ムーブメントの中心で過ごし、ストリートカルチャーから学んだ遊び心を活かしたロゴ、グッズ、アパレルデザイン、空間デザインなどその表現は多岐に渡る。デザインワークを生業とする一方で、自身の情報サイト「HIVISION」を運営し、目利きセレクターとして雑誌やウェブマガジンにて連載するなど、メディア各方面にグッドデザインアイテム、最新のガジェットを紹介。著書に「I LOVE FND ボクがコレを選ぶ理由」
HIROCK DESIGN OFFICE:https://www.hirockdesignoffice.com/
HIVISION:https://www.hi-vision.net/
Instagram:@hirock_fnd
高木 完
音楽プロデューサー・DJ
1961年 神奈川県逗子市生まれ。79年にパンクバンド「FLESH」のヴォーカリストとしてデビューし、81年にバンド「東京ブラボー」を結成。86年に藤原ヒロシとヒップホップユニット「タイニー・パンクス(TINY PUNKS)」結成。88年には中西俊夫、屋敷豪太、K.U.D.O、藤原ヒロシらと日本初のクラブミュージック・レーベル「メジャーフォース(MAJOR FORCE)」を設立。90年代には5枚のソロアルバムをリリースし、00年代よりエイプ・サウンズ((B)APE SOUNDS)やアンダーカバーのサウンドディレクションを担当。現在はメジャーフォースの運営のほか、「TOKYO M.A.A.D SPIN」(J-WAVE)でナビゲーターを担当。また中古レコードと古書を取り扱うウェブストア「MEMES TOKYO」を運営するなど、80年代から現在に至るまで、日本のカルチャーシーンを生み出し牽引し続けるレジェンド。
MAJOR FORCE:https://majorforceproductions.com/
MEMES TOKYO:https://www.memestokyo.com/
Instagram:@kantakagi
SIERRA LITE
半世紀におよぶ歴史の中で生み出されたアイコンモデルにスポットを当て、セルフリプロダクトしていくシリーズ「Original Since」コレクションより、1978年に発表された世界初の軽量ハイキングブーツ「SIERRA LITE(シエラ・ライト)」が登場。それまで重いのが当たり前であったアウトドアシューズに“軽量”という概念を持ち込んだ、エポックメイキングモデルのオリジナルシルエットを再現しながら、日常使いしやすいディテールにモダナイズ。加水分解しにくいアウトソールやコーデュラナイロンを採用することで耐久性もアップデートしており、ブランドの創立50周年にふさわしいシグネチャーモデルとなっています。
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※<HI-TEC限定プレイリスト RESPECT COVERS>と<HI-TEC x MAJOR FORCE x HIROCK DESIGN OFFICE スペシャルコラボレーション Tシャツ>は、インタビュー後編ページに掲載しています。